僕は甘えたがりの猫




 「先生……」

 呆れたように君が言う。
 狭い台所の収納扉を開けた視線の先には、特売で少し余分に買いだめをしておいた猫缶とドライフード(成分などを見て良質なものを心がけている)が一山。
 彼女は恐らく、10キロ米袋でも期待していたのだろう。しかしすっかり空になったその残骸は申し訳なさそうに棚の隅でくしゃくしゃになっていた。

 はあ…と聞こえる程にため息を付き、
 「猫ちゃん達のご飯は分かりました。…先生がすごいかわいがってるってことも。
 でも、先生自身はどうしてるんですかまさかツナ缶でさえさぼってるんじゃないでしょうね」
 跪いて棚内を確かめる彼女と合わせるように膝をつく僕。
 その距離感と視線の高低差でさえ、彼女の少し…問いつめるような声が響いて僕は困ったなと思う。
 
 本当は君にこんな声を出させたい訳じゃないんだ。
 本当はいつも笑っていて欲しい。
 僕が笑わせてあげられるならば。

 そうは思うけれど、きらめくその視線からとっさに逃れたくて細々と言葉を繋ぐ。
 「最初は僕と同じ物を食べてたんですみんな。
 …でも、猫たちは不満があっても言葉を話すことが出来ないから、出来るだけ良い物を食べさせてあげたいなって。
 そしたら猫のご飯が増えていって。
 僕は何とでもなりますから。
 でもね、猫缶って人間が食べて害になるものってないんですよ。人間が食べて良い物でも猫には良くないものもあるのに。
 それを考えると人の探求心は凄いです」
 最初は自信なく始めた言葉なのに、段々熱が入ってきてとうとうと語ってしまった。
 彼女は呆れてしまったかな。

 視線を降ろすとじっと聞き入る君。
 ああ、こんな所は高校時代とちっとも変わっていない。
 僕は調子を良くして続ける。
 「僕も実際食べてみました。
 …中には塩分が強すぎて猫には向かないと思った物もありましたけど、厳選素材とか猫の肥満に注意を払ったものまであって。
 最近のペットフードは随分進化したんですねぇ全然美味しいですよ」
 
 そこまで言った僕に、何だかぴしりという音が聞こえた。…ポルターガイストは殆ど証明ついてるんだけどねいささか微妙な見解も含めて。
 でも、その音は君の神経が切れる音…だったらしい。

 「先生。買い物行きましょう今すぐ!
 ちゃんとご飯食べてくれないと…私…わたし………」
 普段腹芸など出来ない彼女が僕に訴える眼差しをする。
 ああ…こんな瞳に僕はとても弱い。
 「わ…分かりました。
 うん、出かけましょう…ね。どこがいいかなあ……」
 自分のこと以上に真剣な彼女に、嬉しいと思いつつ何だか居心地が悪い。
 だって僕自身はそんな自分の事にマジになったことないんです。



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 僕達は手を繋いで早春の街を歩く。

 彼女が卒業して数日しか経っていないのに、何だかあの日々が遠いもののように感じてしまうのは、在学中はあえて線を引いた「教師」と「人」の境界を今は超えて、ためらいなく君の手を取っているからかもしれない。
 アパートを出て差し出した僕の手を、最初はビックリしたように見つめて…嬉しそうにその小さい掌を滑らせて来た。
 柔らかくて暖かい手。
 この小さな手からあんなに美味しい料理も、美しい衣装も生み出してしまうんだから尊敬してしまう。
 
 「今日…まだ寒いですねぇ…何作ろうかな」
 家から十分ほどの大型スーパーに着くと、楽しそうに彼女がにこにこと今日の献立を考え始める。
 「僕は何でもいいです。嫌いなものはありません」
 「先生えらい。…うちの父なんて野菜が全然駄目なんですよ。母や私がどんなに工夫しても全く手を付けなかったことだってあるし……」
 毎日ご飯作る身にもなれって感じですよねぇ……。 愚痴を言っているにしてはどこか楽しそうな君のやさしい心と諦めない強さを思う。
 僕の愛してやまないところ。

 「…僕…ぼくは、君が作ってくれるから何でも好きなんですきっと」
 「…………?…………!!」
 呟くように言った僕を見上げた君が、やがて理解したのか顔を真っ赤にする。
 こういうちょっとおにぶさんですぐ頬を染める所も僕は好きですよ。
 「…あ、ほら先生今日春菊が特売ですって!白菜と椎茸も安い。後豆腐買って…そうだ水炊きにしましょうまだ寒いから鍋も美味しいですよ」
 視線を泳がせて話題を反らせる彼女。一気に言ったもののそのアイディアが彼女自身気に入ったらしい。
 出汁はやっぱり鶏肉でとらないと……などと次々に安い食材を買い物籠に入れていく。
 僕は重くなっていく籠を受取り、彼女の主婦ぶりを眺めていた。
 こんなに若くてかわいい君が僕一人を思ってくれているなんて未だ信じられないな。早く約束を交わしたい気もする…けどまだ時期尚早だろうか。
 

 精肉コーナーを見ていた時、
 「あら、若先生じゃない!」
 ふいに声を掛けられ背中をはたかれる。
 聞き覚えある威勢のよい喋り方。
 「大家さん。こんばんは」
 「こんばんは。…何? 今日は妹さんと一緒なの?」
 僕がまともに買い物しているのが珍しいとか、妹さんにしては今まで見なかったわねとか、あんまり似てないいえいえ何でも…などと僕達二人を見ながら話かけてくるこの人は僕のアパートの大家さん。同じ敷地内の一軒家に住んでいる。
 子どもを独立させた後旦那さんと死別したらしい。
 そんな人だからこそ、僕の食生活を気に掛けてくれるのか、時々夕飯を差し入れてくれたり田舎から送られて来たと柿をお裾分けしてくれたこともある。

 彼女にそんな大家さんを簡単に紹介した後、
 「や、実は僕の彼女さんなんです」
 言っても良いよねと彼女に視線で問いかける。
 もう自分の気持ちを隠す必要はない。
 僕は社会人だし、彼女も来月から働き始める。
 こうして僕の大事な人を誰かに紹介するって幸せなものなんだな。今まで知らなかったことだ。
 僕がにこにこしているもので、彼女も諦めたのか頬を染めて宜しくお願いしますなんて言っている。
 本当にかわいらしい。とっさにぎゅっとしたくなった気持ちを抑えて僕もそういう訳なので宜しくと頭を下げた。
 最初驚いていた大家さんも、先生にもやっとそういう人ができたのねぇと喜んでくれた。
 見た目からして分かる年齢差とかその他諸々…些末なことなのか気にした風もなくちゃんと彼女にご飯食べさせてもらうのよと笑って、それじゃあと別れた。
 理解してくれる人の存在はありがたい。
 彼女の為に。



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 あの後、5キロの米と土鍋(彼女曰く、土鍋は色々使い勝手がいいそうだ)も揃え、お互いに荷物を抱えてアパートに戻ってきた。
 僕は正直給料前でなくて助かったと思った。…いくら彼女がやりくり上手でもこれだけの買い物はアクシデントに他ならない。
 どうもお金の使い方が下手らしいと自覚はしている。…これからは少し考えなくてはいけないかもしれない。
 
 
 部屋は火の気がないのですっかり冷え切っていた。 なんで三月なのにこんなに寒いんだと、もしかしたら最後の雪でも降るんじゃないかと懐かしいポップスが頭に浮かぶ。
 部屋の隅で鎮座している石油ストーブを付けたが、一瞬炎が上がりすぐ消えてしまった。
 「あ……灯油…切れちゃいました………」
 匂いが鼻につき慌てて窓を開けると冷たい風が吹き込んできた。
 灯油を買いに行ったほうがいいかと悩んでいると、
 「先生が極端な寒がりとかじゃなかったら大丈夫じゃないですか? もうすぐご飯できますし」
 君はそう言って、あと十分もあれば煮えますよと小さいテーブルを出して布巾で清めている。
 一度帰ってきて再度外に出る僕の足労を気にしてくれたらしい。



 彼女が作ってくれたご飯はやっぱりとても美味しくて、食事で足りない温もりは毛布で補った。
 後一つ欲しいなと、君もこっちにおいでと促してみた。
 私はそんなに寒くありませんと最初はつっぱねたものの、僕が手を引くと存外素直に隣へ寄ってきてくれた。

 彼女の腕にはまだらの猫。
 新しい人間に慣れないのか最初は寄ってこなかった猫たちも、彼女の優しさが分かったのか徐々に懐いてくれていっている。
 『飼ったことはないけど好きです』と言っていた通りだな。良かった。僕には君も猫たちもとっても大事な存在だから。

 まだ小さいその子に僕はこっそり君の名前を付けたんだけど、それを話したら君は怒るかな、いやきっと赤くなりながらも笑ってくれると思う。まだ内緒にしておくけれど。

 彼女の腕にじゃれている子や傍で寝そべっている猫たちを見ていると、何だか……
 「ずるいです」
 「…は?」
 彼女がぽかんと僕の顔を見つめる。それはそうだろう。
 「猫たちだけ君に抱っこされたりそんなにくっついたりして。君の恋人は僕なのに」
 「何馬鹿なこと言ってんですか先生。
 猫にヤキモチ焼くなんて小学生じゃあるまいし」
 呆れて言う彼女。
 確かに馬鹿かもしれないけれど僕はこれでも真剣なんです。
 僕の顔を見て、
 「貴文君は甘えん坊さんですね」
 頭をよしよしと撫でられる。
 「はい。でも僕は大人なのでこうしちゃいます」
 君をぎゅっと抱きしめてその暖かさを味わう。
 やっぱり君はとっても暖かくて柔らかくていいにおいがする。
 いきなり抱きしめられて身をよじっていた君も、やがて大人しく僕の腕に収まってくれた。



 「僕、今とても幸せです」
 「先生が幸せなら私もしあわせです」
 にこりと笑った彼女の唇に、僕はそっと自分の唇を落とした。







 宮乃花さんから頂きました。
 まさかメールでポロッと零した萌え話がこんな素敵な文章になるなんて…!!
 感激すぎて涙で前が見えません(号泣)
 ありがとうございました!